日本の農業は、少子高齢化による深刻な担い手不足に直面しています。特に、作物の収穫期や植え付け時期といった繁忙期には、限られた期間に集中的な労働力が必要となり、その確保は喫緊の課題でした。この状況を打破するため、政府は即戦力となる外国人材を受け入れる「特定技能」という在留資格を創設。さらに、季節ごとの人手不足に対応できるよう、派遣という柔軟な働き方も認めました。
しかし、この画期的な仕組みの裏側には、大きなコストの壁が立ちはだかっています。特に、派遣事業を運営する登録支援機関と、外国人材を受け入れる農家の双方にとって、そのコストは現実的な課題となっています。
時給1,856円の壁が示す厳しさ
派遣事業を運営する登録支援機関は、外国人材を正社員として雇用し、給料や社会保険を負担します。外国人材を派遣する際には、これらのコストに加えて、管理費用や利益(マージン)を上乗せした金額を農家から受け取ります。
では、一体どれくらいの時給を農家に請求すれば、派遣事業はトントンになるのでしょうか?
【時給の計算方法】
登録支援機関が負担する1人あたりの月額コストは以下のようになります。
- 推定月額給料(220,000円)
- 社会保険料(会社負担分、約30,000円)
- 登録支援機関の管理費用(約20,000円)
- 合計コスト:270,000円
この合計コストを、農家への派遣料金で回収する必要があります。 一般的な派遣料金は、派遣スタッフの給料に30%~40%のマージンを乗せて設定されます。ここでは、マージン率を35%と仮定し、派遣料金の時給を算出します。
- 派遣スタッフの時給:220,000円(給料) ÷ 160時間(月平均の法定労働時間) = 1,375円
- 派遣料金の時給:1,375円 × 1.35 = 1,856円
したがって、登録支援機関が赤字を出さずに事業を継続するためには、農家から最低でも時給1,856円を受け取る必要があるのです。また、この計算は、月に160時間働けることを前提としています。派遣で複数の農家でフルに160時間就業させることの難しさはご想像の通りですから、実際は2000円を優に上回る損益分岐となるはずです。
農家の支払い能力との大きな乖離
この「時給1,856円」という数字は、日本の農業界の現状を考えると非常に厳しいものです。日本の農業における労働者の平均賃金は、地域や作業内容にもよりますが、時給換算で1,000円~1,200円程度が一般的です。これは、雇用者が労働者に直接支払う金額であり、ここに派遣会社のマージンが乗ることはありません。
1,856円という時給は、平均的な農家の支払い賃金に比べて約1.5倍にもなります。この大きな乖離は、収益性の低い農家にとって、この派遣スキームを利用することが現実的に難しいことを意味します。特に、価格競争が激しい米や野菜、果物などの作物を生産している農家は、高額な派遣料金を支払う余裕がありません。
「それでも派遣を必要とする農家」の現実
では、なぜ一部の農家はこの高額な派遣スキームを利用するのでしょうか?
それは、繁忙期の短期間に、どうしても人手が必要となるからです。例えば、大規模なトマト農園や果樹園では、収穫のタイミングを逃すと商品価値が大きく損なわれます。この時期に「時給1,856円」を支払ってでも、確実に労働力を確保しなければ、ビジネスが成り立たないのです。彼らにとって、高額な派遣料金は「機会損失を防ぐための保険」であり、将来的な経営を維持するための「必要経費」と見なされます。
しかし、このような高付加価値作物や大規模経営の農家は、日本の農業全体のほんの一部に過ぎません。多くの零細・中小規模の農家は、このコストを負担することができません。
派遣スキームの難しさ
特定技能の農業派遣は、理論上は優れた仕組みです。しかし、登録支援機関の経営リスク(就労できない空白期間の給料負担)と、農家の支払い能力との間に存在する大きなギャップが、このスキームの普及を阻む最大の要因となっています。
このジレンマを解決するためには、国による何らかの補助金制度や、地域ごとの複数の農家が共同で外国人材を雇用する仕組みなど、新たなモデルの構築が不可欠となります。日本の農業を持続可能なものにするためには、この高すぎる時給の壁をどう乗り越えるかが、今後の大きな課題となるでしょう。
関連リンク
- 農林水産省:外国人材の受入れについて
特定技能制度の農業分野における受け入れ基準や手続きについて解説しています。 - 出入国在留管理庁:特定技能制度について
特定技能の在留資格制度全体の概要や、各分野の運用ルールを確認できます。 - 厚生労働省:労働者派遣事業の適正な運営について
労働者派遣制度の基本原則や、事業者が守るべきルールについて説明しています。