今回の参院選で浮き彫りとなった外国人排斥の予兆とそれに対する論陣で展開された議論。これは単なる政治的言動の範疇に留まるものでしょうか? それとも、私たちの社会に深く根差す、より根源的な感情が再び蠢き始めた兆候なのでしょうか?
目を世界に転じれば、この現象は日本に限ったことではありません。経済が停滞し、人々の生活に不安が影を落とすたびに、まるで遺伝子に組み込まれたかのように排他的な感情が高まる。韓国での対日批判、米国での愛国主義と移民排斥の動き。なぜ、これほどまでに多くの国々が、経済の不調を「他者への攻撃」という安易な、そして危険な道にすり替えようとするのでしょうか。そして、その先に、人類が本当に望む未来はあるのでしょうか。
不安の増幅が呼び覚ます「太古の生存本能」
この、ともすれば破滅的な潮流の根源には、経済的な不安が人間の根源的な生存本能を揺さぶる構図があります。職を失うかもしれない、生活が立ち行かなくなるかもしれない、将来が見えない――こうした漠然とした恐怖は、理性的な判断力を著しく鈍らせ、誰かに責任を押し付けたいという衝動を増幅させます。その時、最も標的になりやすいのが、「異質」である外国人であり、あるいは「自国の利益を害している」と見なされる他国なのです。
人類の歴史は、この悲劇的な連鎖を幾度となく繰り返してきました。1930年代、世界恐慌の嵐が吹き荒れた時代を思い出してください。各国が保護主義に走り、自国優先の排他的政策を推し進めた結果、ナショナリズムは暴走し、やがて第二次世界大戦という未曾有の破局へと世界を導きました。経済的な苦境は、往々にして社会の亀裂を深め、「内なる敵」を見つけるよりも手軽な「外なる敵」へと人々の目を向けさせます。これは、集団心理が陥りやすい危険な罠であり、「スケープゴート(生贄)」を探す行為に他なりません。
「攻撃」が刻む虚無:人類の進歩を阻む愚行
しかし、私たちは歴史から学んだはずです。この「攻撃」という名の感情的な捌け口が、問題の根本的な解決に繋がることなど、決してないと。それは、人類が築き上げてきた進歩そのものを否定する愚行に他なりません。
外国人労働者を排斥したところで、少子高齢化による労働力不足という日本の喫緊の課題は解決しません。むしろ、外国人材の知見や活力なしには、経済の停滞は加速し、国際競争力はさらに低下の一途を辿るでしょう。世界は今や、相互依存という複雑な網の目の上に成り立っています。この網の目を自ら断ち切る行為は、自国の首を絞めるに等しい。
他国への攻撃的な言動もまた然り。それは相手国からの不信を招き、外交関係を悪化させ、ひいては経済的な報復措置を招く可能性すらあります。かつて、貿易摩擦が激化した際に、特定の国の製品が不買運動の対象となったり、観光客が激減したりといった事態が起きたことを、私たちは忘れてはなりません。攻撃はさらなる攻撃を呼び、最終的に誰もが敗者となる負の連鎖を生み出すだけなのです。
今こそ問われる「人類の選択」:英知が導く未来へ
私たちに今、問われているのは、感情に流されず、冷静かつ賢明な選択ができるか否かです。不安や不満を特定の「敵」に転嫁することは、最も安易な道であり、最も危険な道です。本当に為すべきは、経済的な課題の根本原因を探り、持続可能な成長戦略を描くこと。そして、社会の分断を煽るのではなく、多様性を認め、異なる文化や価値観を尊重し合う包摂的な社会を築くことです。
外国人雇用に携わる私たちは、外国人材が日本の経済、社会、そして文化にもたらす多大な貢献を、誰よりも理解しています。彼らは単なる労働力ではなく、新たな視点、アイデア、そして国際的なつながりをもたらしてくれる、かけがえのないパートナーなのです。
経済の低迷期こそ、私たちは過去の過ちから学び、未来を見据えなければなりません。排他的な感情の炎に自らを焼かれることなく、開かれた心で世界と向き合う勇気を持つこと。それこそが、人類が真に豊かで安定した未来を築くための、唯一の道だと確信しています。
私たちは今、歴史の岐路に立っています。試されるのは、私たち人類の英知です。