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「外国人雇用」の特異点:日本の産業を支えた定住型労働力の光と影
日系ブラジル人の日本での就労は、日本の外国人雇用政策の歴史において、極めて特異で重要な位置を占めています。彼らは、技能実習生や特定技能のような「期限付き」の労働力ではなく、「日本人とルーツを共有する定住を前提とした労働者」として、バブル崩壊後の日本の製造業、特に自動車産業や電機産業の現場を支えてきました。
外国人材の受け入れを巡る議論が厳格化する今、日系ブラジル人がたどった歴史を俯瞰することは、「外国人依存からの脱却」の困難さと「多文化共生」の課題を理解する上で不可欠です。
創成期:1990年入管法改正による「日系人特権」
日系ブラジル人の大量来日は、1990年の入管法(出入国管理及び難民認定法)改正によって可能になりました。
- 改正の背景: バブル景気の真っ只中で、日本の製造業は深刻な人手不足に直面していました。特に、日本人労働者が敬遠する「3K(きつい、汚い、危険)」とされる工場現場の単純労働を補う必要がありました。
- 「定住者」ビザの創設: 改正法では、いわゆる「日系二世」および同「三世」に対し、就労制限のない「定住者」の在留資格が与えられました。これは、「日系人であれば、日本人とルーツを共有するため、言葉や文化の壁が低く、社会との摩擦が少ない」という当時の楽観的な見通しに基づいた、事実上の単純労働者受け入れの枠組みでした。
- 初期の役割: 来日した日系ブラジル人の多くは、愛知県、静岡県、群馬県などの自動車・電機関連の工場地帯に集中し、派遣労働者として日本の生産ラインを支える主要な力となりました。
転換期:景気変動に翻弄される「労働力の調整弁」
日系ブラジル人労働者は、非正規雇用の「派遣」形態が中心であったため、日本経済の景気変動の際に「労働力の調整弁」として最も大きな影響を受けました。
2008年リーマン・ショックの衝撃
2008年のリーマン・ショックとそれに続く世界金融危機は、彼らのコミュニティに甚大な影響を与えました。
- 一斉の派遣切り: 製造業の生産ラインが停止し、多くの日系ブラジル人が一斉に「派遣切り」に遭い、住居や生活基盤を失いました。
- 帰国支援プログラム: 政府は2009年、彼らに帰国費用(30万円)を支給し「帰国支援プログラム」を実施しました。この政策は、定住者ビザを与えたにもかかわらず、経済危機時に「不要な労働力」として国が切り捨てたという強い批判を浴びました。
この時期、日系ブラジル人労働者は「外国人材を景気の波に合わせて使い捨てにした」という、日本の外国人雇用政策の負の側面を象徴する存在となりました。
現在地:「定住型外国人」の課題と共生への道
帰国支援後も日本に残った日系ブラジル人、そしてその後来日した人々は、現在、日本の社会に深く根付いています。しかし、「定住者」であるからこその新たな課題に直面しています。
① 労働環境の安定化
派遣労働が中心だった状況は改善されつつありますが、依然として日本人との賃金格差や、キャリアアップの機会の少なさが課題です。一方で、日系ブラジル人コミュニティ内で起業するケースも増え、多様な職種に進出しています。
② 言葉と教育の「世代間ギャップ」
最も深刻なのは、二世・三世の子どもたちの教育問題です。日本語が不十分なまま日本の学校に入り、十分に教育を受けられないまま社会に出る「失われた世代」を生み出しました。彼らが親の跡を継いで低賃金の非正規雇用に留まるという「貧困の連鎖」が、大きな社会問題となっています。
日本が学ぶべき教訓
日系ブラジル人の歴史は、「人手不足の穴埋めとして外国人材を一時的に受け入れること」と「社会の一員として定住した後の彼らの生活・教育・キャリアに責任を持つこと」は、全く別の問題であることを示しています。
彼らが日本の労働市場でたどった歴史は、現在の特定技能(SSW)や育成就労制度が直面する「定着と共生」の課題に対する、最も重要な教訓を私たちに与えているのです。










